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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)

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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎勤事件)

1988年8月22日 1988年10月3日 1988年12月9日 1989年6月6日

ウィキペディアより



本当にあった怖い事件より


NAVERまとめより


あまりにも有名で社会的影響の大きかった事件。
「写真を撮らせて」と近付いたのが姉妹で、姉が帰宅し父親に話せた事で、第5の殺人が発生せずに済んだ。

1989(平成元)年7月23日17:00頃、東京・八王子市で印刷業・宮崎勤(27)は小学校1年生の女子(6)に「写真を撮らせてね」と近づき数枚撮影した後、車に連れ込み郊外の山林で全裸にしてビデオ撮影しようとしたところを、後をつけて来た女子の父親に取り押さえられて警察に引き渡された。
八王子署は宮崎に対して事情聴取した結果、6月6日に失踪した野本綾子ちゃん(5)を猥褻目的で誘拐・殺害したとの自供を得た。
8月10日、宮崎の供述通り東京都奥多摩町の山林で綾子ちゃんの頭部を発見した。
これにより、宮崎は昨年から多発した幼女失踪事件に関与した疑いが濃厚とみて「警察庁広域重要117号」に指定。
埼玉、東京の幼女失踪事件について宮崎を厳しく追及した。
その結果、宮崎は前年の1988(昭和63)年8月22日に埼玉・入間市の幼稚園児で今野真理ちゃん(4)に声をかけて車に乗せて八王子市郊外の山林で絞殺したことを自供。
さらに殺害後、ビデオカメラで陰部などを撮影し死体を埋めた。
翌年の1月、殺害現場から真里ちゃんの白骨化した頭部を持ち帰り自宅の庭で焼き、遺骨をダンボール箱に入れて真里ちゃん宅の玄関前に置いたのも宮崎本人であったことが判明した。
ダンボール箱の中には真里ちゃんの遺骨以外にコピー用紙で「真理・遺骨・焼・証明・鑑定」という文字が記載されていた。
2月10日から11日にかけて犯行声明が「今田勇子(=今だから言うという意味か?)」名で朝日新聞社と今野家に郵送で届いた。
さらに新聞で真理ちゃんの葬儀が3月11日に行うことが記事になると、朝日新聞と今野家に第二の犯行声明が届く。
その文面の一部に「お葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました」という内容が記載されており、遺族の怒りは頂点に達した。
同年10月3日、埼玉・飯能市で小学校1年生・吉沢正美ちゃん(7)も同様に八王子市郊外の山林で猥褻目的で絞殺。
同年12月9日、埼玉・川越市の幼稚園児で難波絵梨香ちゃん(4)も猥褻目的で誘拐し絞殺。
死体を埼玉・名栗村の山林に遺棄した。
宮崎は今野真理ちゃん、吉沢正美ちゃん、難波絵梨香ちゃん、野本綾子ちゃんの4人を猥褻目的で誘拐しその後殺害。
殺害後に猥褻行為をしてビデオカメラやポラロイドカメラで撮影するという猟奇幼女連続殺人事件の犯人として起訴された。
捜査本部は宮崎の自宅を家宅捜査したところ、約6000点という膨大なビデオテープと大量の漫画本があった。
この押収したビデオの大半は、アニメやアイドル、子供向け特撮などの録画テープであったが、その一部から犯行を自ら撮影したビデオが発見された。
宮崎の部屋は窓が無く、膨大なビデオテープや漫画が所狭しと並べられていて異様な雰囲気だった。
宮崎は後に「オタク」と呼ばれるようになった。
宮崎は1962(昭和37)年8月21日に東京・五日市町(現・あきる野市)の地元新聞会社経営の父親の長男として出生した。
宮崎家は祖父が村会議員、父親が自治体の役員で地元では名士として知られた家だった。
裕福な家庭で育った宮崎に決定的な転機だったのが、生まれつき両手の掌が上に向けることが出来ず、いわゆる「頂戴ポーズ」が出来なかった。
このため宮崎は幼稚園でのお遊戯が「死ぬほど辛かった」と供述している。
その後地元の市立小学校、中学校を卒業し高校は明大中野高校に入学した。
学友は、宮崎の記憶が殆ど無く「目立たないくて暗い人間」という声が多かった。
高校を卒業して東京工芸大学(短期部)の画像技術科に入学。
この頃、宮崎はパズルに熱中し専門誌にパズルの回答を頻繁に応募していた。
が、異性に関しては宮崎は手の不自由さからコンプレックスを抱き、興味を持っていない様子だったという。
また、宮崎の成長過程で家族関係の問題が指摘されている。
特に宮崎は父親との関係は極めて希薄で会話が殆どなかったという。
宮崎は、生まれつき手が不自由なのは父親のせいだと思うようになる。
父親も、宮崎が手の不自由をこれほどまでにコンプレックスを抱いていたことに気付いていなかった。
尚、父親は事件後の1994(平成6)年11月21日、多摩川で投身自殺している。
1983(昭和58)年3月、短大を卒業。
父親の紹介で東京都小平市の印刷会社に就職したが3年後に退社。
以来、実家に戻り、引篭もりがちの生活を続けた。
この頃から、両親に対する暴力が目立ち始める。
1988(昭和63)年5月に宮崎が唯一心の拠り所にしていた祖父が脳溢血で死亡した。
落ち込んだ宮崎は「ここでスイッチが入ったのか」、その2ヵ月後の今野真理ちゃん殺害から逮捕されるまで犯行を重ねていく。
公判は「宮崎の精神状態が刑事責任能力を問えるか」が焦点となり精神鑑定を実施。
1997(平成9)年4月14日、東京地裁は極端な性格の偏り以外に精神病的な状態では無かったとして死刑を宮崎に言い渡した。
2001(平成13)年6月28日、東京高裁は宮崎の控訴を棄却。
宮崎の精神状態を鑑定した3人の内、帝京大学の内沼教授は宮崎には5つの人格が見られるという(宮崎自身・衝撃的な殺人者・今田勇子・冷静なる人物・鑑定人を否定した人物)。
多重人格と犯罪責任能力の有無が最高裁での焦点になっていたが2004(平成18)年1月17日最高裁は1審、2審を全面的に支持して上告を棄却。
宮崎の死刑が確定した。
判決後、面会した臨床心理士に宮崎は「何かの間違いです」と死刑判決に関して話したという。
2008(平成20)年6月17日、東京拘置所で死刑執行。
享年45歳。

参照「宮崎事件
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