1990年11月13日 新潟県三条市の路上で誘拐された当時9歳の少女が、2000年1月28日 同県柏崎市の加害者宅で発見された
ウィキペディアより
NAVERまとめより
犯人は1989年6月13日には別の強制わいせつ事件を起こしており、懲役1年・執行猶予3年の有罪判決を受けていたがその執行猶予中の犯行だった。
そんな犯罪者リストが登録されていなかったとの批判はあったが、登録されていたとしても当時の警察でそれと連動させられる事が出来たのかどうかは疑問なので、ただ、保護時の状況の偽装発表はおかしい。
犯人の男は乗用車で単身移動中に下校途中の少女を発見。乗用車で少女の前に回り込み、サバイバルナイフを突きつけ脅し、そのまま少女をトランクに押し込め誘拐する。
父親はすでに死亡しており、母親との二人暮らしであったが、2階の自室への別の入り口を作らせさらに、母親の出入りを禁じていた事から、自室は事実上、異常な性癖を満たす隠れ家的なものになっていたと思われる。
そこに少女を監禁し、少女の9年2か月を地獄へと追いやるのである。
両手両足を縛り、ナイフを突きつける、顔面を殴打する、スタンガンを当てるなどの暴行を繰り返す事で、恐怖で逃走の意思を失わせる。
しかしながら、高校卒業後わずか3か月で会社を退職し、それ以降は引篭りとなり母親への家庭内暴力も行われていたが、それがエスカレートし、耐えかねた母親により精神病院への強制入院の為、保健所職員の訪問により、少女が発見される事になった。
当時、暴れる男を抑えるために、警察への応援を要求するが、人員不在で断られさらに、少女発見時に改めて警察に出動を要求したが、それにも応じず。
「午後三時ごろ、柏崎市内の病院で男が暴れていると通報があった。一緒にいたのが(三条で行方不明になった)女性だった。女性は名前と生年月日を話した」との警察発表が状況とは大きく相違あるもので、且つ当初の警察への応援要求に対して「『公園近くの家で男が暴れているので警官3人に来てほしい』と柏崎署に通報があり、そのときは警官の都合がつかず出動できなかったが、折り返しの連絡時に出動の意向を伝えた。しかし『男が大人しくなったので必要がなくなった』と言われた」と出鱈目る。
そもそもが生活安全課とされるものが生活安全のための課であれば、早期に解決されたかも知れないが、逆に男の性質上、生活安全課であればあるほど、発覚の恐怖感から短絡的な行動を起こさなかったとは言い切れないが、根本的に民意が求める体質であれば、問題が無かったのかも知れない。
- 少女の発見・保護状況で虚偽の発表をした
- 性犯罪歴のあった男が少女の不明時に捜査対象とならなかった
- 4年前に男の母親が柏崎署に相談に来た際の相談簿を紛失した
- 少女を発見・保護した保健所職員からの出動要請を拒否した
- 9年2カ月の間、巡回連絡で被疑者宅を3回訪れていたにも関わらず不審情報を得られなかった
と、結果的に謝罪を行う事になった。
少女の発見当日、警察庁特別監察チームのトップである関東管区警察局長が視察で訪れ、宴席が設けられ局長、本部長、生活安全部長、総務課長、生活安全企画課長が参加し、図書券を景品とした麻雀に興じていたらしいが、警察という組織もサラリーマン的な組織で、正義とはかけ離れた社会が長年に渡り構築されており、出世欲という部分的な見地からすると、致し方ない結論かと思われる。
2002年1月22日、懲役14年の判決。